精霊アカリノカミの加護を以てして栄えた都からほど近くにある森に、 肺を満たせばあっという間に理性を失い、猜疑と争いを焚き付ける、紫黒の霧を生む魔物の王がいた。 王自身は優しき心を持っていたが、近づくだけで人の心を狂わす霧を生むがゆえに、人間たちには恐れられていた。 ある時、王は森の入り口付近で一人の幼子を見つけた。 霧の中で正気を保っていたのは奇跡であったが、その異端の体質故捨てられてしまったのだろう。 王はその子を「ミマヤ」と名づけて育てた。その子は薄紫の瞳に銀色の髪を持つ美しい少女になった。 しかし魔物にとって人は異形の存在。王以外に森に住まう魔物は少女との接し方がわからず、 次第に彼女から距離を置くようになり、いつしか彼女は独りになった。 王以外に話す相手もなく、寂しげな様子の彼女を見て、 王は彼女を傍に置くべきでないと判断し、郷愁を抱かぬよう森に関する記憶を奪い、 彼女を人里近くまで連れて行き、森の奥に姿を消した。 王は悲嘆にくれ、その心に呼応するように霧は外の世界へ広がり満ちた。 一方都は史上最大の危機に瀕していた。 精霊の力を以っても狂乱の霧の進行は食い止められず、 既に微かに漂ってきた霧は、人々の間に小さいながらも諍いを生み出していた。 背後にまで迫る滅亡の運命。 都を救う方法は一つだけ、霧を生む根源を討伐すること。 しかし、精霊自身は地に縛られ動くことはできず、 篤き加護と貴き言葉を用いても、人の身では霧の毒には耐えられず、 霧の王に近づくことすらできずにいた。 都の者達が絶望の底にいる最中、 霧の最前線にある村で、霧に抗う力を持つ少女が保護された。 その報せを聞いた神官たちは少女を都に招きいれ、 精霊の力を持つ剣を与え、都の希望を託す計画を立ち上げた。 王が少女と別れ数年が過ぎ、王は少女と再び森の奥で出会った。 嘗て愛した人の形が、剣を向けて王に告げる。 「我が名はミマヤ。都の命を受け、霧の王の討伐に参った!」 王は近づく少女の姿に当惑し、体がうまく動かない。 ぶつかり合う爪と剣。王は少女を討ち取るための一手が出せない。 一瞬の隙をついて少女の剣が閃き、腕を落とされ王の体勢が崩れる。 続けざまに脚を切り落され、王は地に臥した。 息の根を止めんとし、少女が王の首筋に飛び掛る。 王が剣を受け入れ死を覚悟した刹那、首に当たった剣が飴細工のように力なく二つに折れた。 予想外の出来事に反応が遅れ、少女は王の目前に向って転がり落ちる。 魔物たちの声が響く。 王には守らねばならぬ森があった。霧の中でしか生きていけない魔物達を見捨てるわけにいかない。 正気を取り戻した王は、湧き上がる感情を押し殺し、少女を牙で貫いた。 滴る赤の鏡面に、写った獣の目には一筋の涙。 湧水のごとき感情は堰を破り咆哮と化す。 悲哀は極まり霧を生み、森の外に夜が染み渡る。 ついに都は霧に覆われ、精霊の愛した地は瞬く間に戦火に包まれ、滅びの道を辿った。